ソール・クリプキ『名指しと必然性』第二講義
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可能世界論を用いない群概念理論の検証
 記述理論の代用案として、名前は記述の偽装された省略ではないが、記述が名前の指示を決定しているとする群概念理論がある。クリプキによれば、これは幾つかのテーゼと付随する補助的なテーゼに分解できる。大まかには
(1) あらゆる名前または指示表現「X」に対してAが「φX」と信じるような性質の集団φが対応する。
(2) それらの諸性質のうち一つあるいは複数が結合してある個体をただ一つだけ選び出すとAは信じている。
(3) もしφの殆ど、あるいは重要なφの殆どが唯一の対象yによって満足されるならば、yは「X」の指示対象である。
(4) もし投票(※)が唯一の対象をもたらさないならば、「X」は指示を行わない。
(5) 「もしXが存在すれば、Xはφの殆どを持つ」という言明は、話し手によってアプリオリに知られている。
(6) 「もしXが存在すれば、Xはφの殆どを持つ」という言明は、話し手にとって必然的真理を表している。
※本文p75参照。「X」を決定する際、どれが本質的で必然的の性質か取捨選択することをクリプキは「投票」と言っている。
 の6つに分解できる。(Xは指示表現、yは指示対象、φはyの記述)

 これらの議論を問題にする前に、どの性質φが重要であるかを指定することは難しいことが問題点として挙げられる。聖書に記述されたある指示対象「a」に対する記述が偽であり、かつ「a」が存在することが可能なら、聖書の記述の重要性はどうなるか…聖書の中だけにその存在の証拠を確認できる「a」にとって聖書の記述は(3)に規定される重要なφではないのか。それが偽ならば(4)によって対象は指示されないのではないか。またそれを誤魔化そうと「聖書はしかじかのことをaについて語る」という場合、聖書の記述が誰のことを指しているのか我々はどうやって知るのか…。このような問題を前にすると、次の条件の付加が必須となる。

 (C)いかなる理論も成功したものであるためには、その説明は循環的であってはならない。投票に使われる諸性質は、それら自身、究極的に消去不可能な仕方で指示の概念を含んでいてはならない。

 そうでなければ、「aは『a』と呼ばれる対象を意味する」という議論がまかり通る。これは「a」を指示していないし、そのようなやり方で指示が規定されるなら、いかなる指示も始まりはしない。
 そのように定めたとして、これらのテーゼには幾つも矛盾点が存在する。
 φが一つだけしかないと仮定すれば、φが偶然的真理であってもそれは話し手にとって必然的真理とされてしまう。
 このことは第一講義ですでに検証した。可能世界が遠くにある場合対応者はどのように定められるのか、という議論と同じである。φでyを(純粋に質的に)記述しようとしても、φがy以外のものに当てはまる可能性は多くあったのであり、そのような可能性を論じる場合において、φが対応するXを規定しない(Xはφでなかった可能性もあるという言明が矛盾率を犯さない)ではないかという反論が行なえる(*2)。群概念の中に別の規定方法があるからだろう、という反論にも、φの定義を厳密に使ってみるとしても、同様の反論が可能である、と反論できる。クリプキの言いたいことは、重要な性質云々と言うが、我々は「今、現実世界で」名前を使って対象を定める時に定めたようなやり方でその対象を特定しているだけだ、ということだろう。その中身が検証されなければそれは彼自身が言う循環論法になるので、それがどのようなやり方でなされるか見ていくことにする。
 ここから考えるとテーゼ(6)は偽ではないかと考えられる。
 テーゼ(5)については、名前が指示を固定するやり方を自ら定めるような場合を除いて通常偽である。
 テーゼ(2)については、「Aは行為αを行ったものだ」という説明で指示がなされると、多くの場合、今度はαについての説明を求められると、αについてよく知らない人は、「αはAによってなされたものだ」と答える。これでは説明が循環的になってしまうため、こう答えるような人にとっては二者の関係性の説明にはなっていても、二者が特定の何かであることを指示しはしない(*2)。よってこのテーゼは偽である可能性がある。
 テーゼ(3)はテーゼ(2)の誤謬によってうまく働かないことが示されるが、「αを満たすyをXが指示すると考えていたが、真実はαを満たしているのはzだった」という事例でも、我々はXによってzを指示したりはしない、ということからクリプキはこのテーゼを偽としている。 (*3)
 テーゼ(4)にかなり疑問があることは上記している(*4)。
 テーゼ(5)に関しては非常に特殊な例に限られるだろう。そうだと考えることは非常に容易だが、それがアプリオリな知になるかは甚だ疑問である。
 こうして、テーゼ(1)〜(6)はどれか反論に晒されることになる。

命名と指示の連鎖
 記述の群概念理論を「救う」ための方法として、「Xは殆どの人がφを満たすと考えているyを指す」と言い直すことが考えられる。しかし、殆どの人がφを満たす対象をyと考えており、ある人がφを満たすのはX1と呼称されるy1だと考えていれば、当然後者はφの条件を与えられればX1によって指示されるものだと考えるし、その対象はyではなくy1だと考えるだろう。また、「Xはφを満たす対象を指す」という時、「言った本人がyがφを満たすと考えている」ということは帰結せず、X1という名前で指示されるy1がφを満たすと考え、彼がy1の指示詞としてXを用いていれば、指示詞Xは対象y1を指すことになる(※)。
※原文ではXとy、X1とy1に同じ「名詞」が用いられている。「ペアノの公理を発見した男はデデキントである」「ペアノの公理を発見した男はペアノである」という二つが対比されている。ここに明記した通り、指示対象と指示詞を分離すれば議論は明快であるのに、先ほど折角分離したものを再びくっつけている。
 我々はyを指示するために「Xが”通常φを満たすとされるy”を指示するとしよう」と命名儀式を行ったりはしない。φが空虚であれば(φはXによって指示されるyを記述するもの、としか記述できないため)、これは循環的になってしまう。
 指示の転嫁によってこれを逃れようとする手段を考えると、「Xがpによってφを満たすとされるyを指示するとしているものを指示するとしよう」とすることができ、入れ子構造を繰り返していくこともできる。しかしこの手順で実際に正しい指示対象にたどりつくかどうかは甚だ疑問であるし、転嫁する対象を覚えていない場合も多い。また、φのうちyを記述するためにどれが正しいのか判別できないためにyを選び出すことそのものが困難である。
 「φを満たす対象は(何であろうが)私はXで指示する」と自分自身のために命名儀式を行うことを咎める者はいないが、その場合φを満たすyが実際にはX1あるいはX2と呼ばれていても、自分だけはXと呼び続けることになる。
 しかし通常はそのようなことは行われない。まず「Xによってφを満たすyを指示しよう」と命名が行われる。それを別の人が伝え聞いて、その指示を連鎖していく。そしてある人物にたどりついた時、その人はyを一意的に同定できずともXによってyを指示することができる。
 この命名者からこの場での指示者までの因果連鎖ならどれでも指示の働きをするわけではない。しかし、クリプキは一般に我々の指示は命名者や指示者の意向だけではなく、共同体内の他の人々や、指示者が指示詞を知った経緯などにも依存していることに言及する。
クリプキはここでこの説を厳密に吟味する気はなく、群概念理論に対して「よりよい見取り図を提示したい」ということに留めている。

「しかしもっと注意深く言えば、私は、指示に対する一連の必要十分条件を与えることなしに、よりよい見取り図を提示したいのである・そのような条件は非常に複雑なものとなるであろうが、われわれがある人物を指示できるのは、指示対象その人に帰着するような、共同体内の話し手との結びつきによってである、ということは間違いない(p112)。」

同一性言明は偶然的か必然的か
 「φxであるようなxとψxであるようなxは同一である」という時、この二つの記述の同一性は偶然的事実であり得る。目下、「ヘスペラスはフォスフォラスである」「キケロはタリーである」などの名前の間の同一性明や、「光は光子の流れである」「音は空気中のある種の波動である」などの科学理論による同一性言明も偶然的であると考えられている。
 クリプキはこれに対して、「熱は分子運動である」のような特徴的な理論的同一視に関しては、これを必然的真理とみなしている。(*6)
 複数の名前の間の同一性は必然的だと考える立場があり(L.B.マーカス、*7)、その同一性の発見は(明けの明星と宵の明星が共に金星であることが明らかになったように)経験的なものだから偶然的だと考える立場がある(W.V.クワイン)。名前の同一性の判明は経験的ではないと考える立場もあるが、これは通常の意味での名前には当てはまらない(B.ラッセル)。
 ある人が指示詞xをyを指示するために使い、指示詞x1をまた同様にyを指示するために使い、その上でxとx1が同一であることを知らないという例は確かにあり得るため(*8)、我々は名前の間の同一性が真であるとアプリオリに知っているわけではない。しかし、だからといって偶然的なものだとも限らないことは第一講義で示されている。
 金星を「明けの明星」「宵の明星」と二つの名で呼ぶとする。「明けの明星」と「宵の明星」がそれぞれ別の天体に名づけられることは可能だが、それは明けの明星が宵の明星でなかったということにはならない。クリプキによれば、「明けの明星」と「宵の明星」はいかなる世界においても金星を指す言葉となる。ある可能世界において「明けの明星」と呼ばれる金星以外の星があっても良いが、それは明けの明星ではない。(*9)



 2:通常その過程で別の説明がなされるためそれで満足してしまうことが多い、というだけのことなのだろう。しかしながら、こう関係付けることによって、その名前は少なくとも、二者の関係性における意味を持っている。場合によっては、指示さえし得る。指示とは他の多くのものからの区別を意味すると捉えることもできる。そしてそのことは後に彼自身が書いている。
 3:ここは本来もっと真剣に考えるべきではないか。なぜなら、この論こそが記述理論の真骨頂を示す部分ではないかと思われるからだ。我々はコロンブスが新大陸を発見したのではなく、実際には古代スカンジナビア人かそのあたりの人々が発見したのだ、と実際に知っていて、尚「コロンブスが新大陸を発見した」と言う。発見とは誰にとっての発見か、が曖昧にされていて、恐らく主体者であるその時代のヨーロッパ人、自己中心的な彼らの目から見れば確実にそれは発見だったのだ、という理由をこめて。本当にそう信じている人からすればまたここの群概念理論にある通り「我々は事実に基づいているとは限らず信念に基づいているのだ」という説が通じる。あるいはこの論はあまりにアドホック過ぎて通用しないか。
 4:つまり聖書の例に挙げたような超越論的演繹が必要なのだ。そして、そこで聖書の中身自体はどのように指示しているのか? ここで(C)に反している、という議論か。
 6:非常に奇妙なことである。これは、「分子運動」は名詞、つまり固定指示詞として用いられているのではないか、としか考えられない。でないと議論に合わない。
 7:詳しく解説されていないが、あるものを二つの呼び名で呼び、かつそれが同じものを指すと知っていれば、分けて呼ぶ場合は必然的に同一のものと分かっていなければ言葉の用法としておかしい、というものだろう。
 8:ヘスペラスとフォスフォラスは同一の対象を指さないし、牛若丸と源義経も同一の対象を指さない、という考え方もできるが、それではどんな名前だって同一の対象を指さない。直接に指示することしかできない。直接に指示することも危いだろう。それゆえ、対象の多少の変化には目を瞑らざるを得ない。
 9:指示詞と指示対象を分けると、混乱がはっきりする。指示対象「金星」をy、指示詞「明けの明星」をX1、指示詞「宵の明星」をX2とする。現実ではX1=y、X2=yである。故にX1=X2である。ここで、クリプキの論によれば固定指示詞はどの可能世界でも同じ対象を示さなければならない。そのため、指示詞「明けの明星」は指示詞「宵の明星」以外のものを指示できない。ところが、これは直観的に違和感を覚える議論である。金星が現実と別の軌道を移動しており、夕方と朝方に別々の極めて明るい星が確認できる状況は明らかに想定可能である。
問題は、X1=y、X2=yという仮定である。ここを突き崩すことができれば、この規定から逃れることができる。単純な話であり、話をこう考えれば良いのではないか。
「「明けの明星」という指示詞を金星を指すものと固定するのではなく、純粋に朝方に見える惑星を指示するものとしよう。」

発表後の突っ込み
 クワインもそうだが、ここが理解できないということは存在論と名指しとの捕らえ間違いをしている。抜きがたく存在論という呪縛にとらわれている。
 a=aという同一性言明はそう定めたから同一であるのであり、そこに理由はいらない。a=bとされた瞬間にはじめてa=bなのである。これは定義としての問題なのだ。
 a=x、b=xによりa=b、という存在論的な思考をしているから問題が解決できないのだ。そこをきちんと判別していかなければならない。
 読み直して、備えろ。

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