ソール・クリプキ『名指しと必然性』第三講義前半 レジュメ
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性質と名前の関係の必然性
 第二講義考察において、以下の内容の理解ができていなかった。第三講義においてこれついて詳しく触れられていたので、そこを中心に考察した。
クリプキはこれに対して、「熱は分子運動である」のような特徴的な理論的同一視に関しては、これを必然的真理とみなしている。

第一・第二講義において
 A.ある性質が指し示す名前は、ただ一つの対象を指し示す必要はない。その性質が間違っていようと、それを指示しようとした人物は、実際にそれを指示しようとしている。(*1)
 B.対象が最初に命名される際、その命名が対象を一意的に同定する記述によって行なわれたとしても、それによって指示は固定され、国定された指示が伝播される。従って、一度固定された指示が(何らかの理由により)対象の性質を実際に記述していない場合でも、その指示は対象を指し示す。(*2)
 C.二つの名前の間に同一性を認める言明がある時、それを真とするならば、その言明がアプリオリに知られないとしても、それは必然的に真でなければならない。(*3)
 補足:アプリオリ性と必然性はイコールではない
 という三つのことが述べられた。
 今までは対象が特定できる固有名について述べられてきた。ここでは一般名に対してその手が伸ばされている。
 まず、固有名ではない「一般名」(=種)と性質の関係性について考察してみる。
金(Au)は黄色であるとする。これは納得のいく性質の一つであるとする。その上で、何かによる大規模な陰謀が暴かれ、金が実は黄色ではなく青色であったことが証明されたとする。その場合、金(Au)は金でなくなるのではなく、青色であるという性質をもって置き換わるだけだろう。
 また、金について研究が進み、一部金とされていたものが原子番号の全く違う別の物質だと分かった時、我々は恐らくそれを金とは呼ばない。偽金やら、白金やらと呼ぶだろう。
別の例を引くと、虎は4本足の動物だと定義されているとする。その上で、生物学上の大発見により虎は実は3本足だったことが発覚したとする。この時、虎は存在しなくなるのではなく、虎という概念のうち4本足であるという部分が3本足であるという部分に置き換わるだけだろう。
 この場合、明らかに一つの種という概念が想定されている。にも関わらず、その種の性質はいずれも、その種であるための必要条件でも十分条件でもない。外見上全く虎に酷似しているが体内構造が爬虫類である生物が発見された時、我々は「虎の一部は爬虫類だ」と結論づけるのではなく、これらの生物は虎まがいの爬虫類だ、と決定付けるだろう。
 種についての定義は我々の経験から導かれる定義であり、「独身者は結婚していない」という定義よりも必然的ではない。種がどのような性質を持っているかは経験によってのみ知り得、普通アプリオリには知られない(*5)。
 明らかな定義から定められた必然的な言明ではない、名前に関する言明(*6)もまた必然的と言えるのだろうか。
 性質BがAの本性であると思われている名前Aがあるとして、AにとってBであることは必然的か否か。そうでないことはあり得る。ただし、その場合、我々はそれをAと呼ばない(*7)。
 このことから考えて、自然種を表す言葉と性質との関係も固有名のそれに近いと考えられる。つまり、牛や虎などの種を表す言葉は性質の省略形ではなく、ただ命名されただけである。
 科学的発見を表現するタイプの同一性言明、例えば、冒頭に挙げた「熱は分子運動である」というような言明は、我々にとって証明された言明となっている。もしかすると、それが間違いであると発覚する可能性はある。だが、それを現実の真理として今ここで我々が認識している以上、「熱は分子運動であるが、熱は分子運動でないかもしれない」という言明は、それ自体で矛盾を起こしている。熱が分子運動であると事前に定められた時点で、必然的に、我々にとって、熱とは分子運動のことを指すことになったのである(*8)。
 命名の起源や伝達の経路は様々にあるかもしれない。しかしながら、一旦名づけられた時点で、その対象をそう名指すことは必然的なことになる(*9)。

 1:ある人物Aを「髭の生えた大男」と形容する人がいたとして、Aが実際には髭も生えておらず、小柄であったとしても、実際にAを指示しようとしていたらAを指示しているのだし、Aの隣にいる人物をAと間違えて指示しているのだとしたら、それはAと間違えて隣の人物を指示している。
 2:河口にないダートマス(河口の町)の例、あるいは1mの長さとメートル原器の長さの違いの例があった。
 3:明けの明星と宵の明星は現実世界では同一であることが真だとみなされた。ということは、そのように定義された。ならば、明けの明星と宵の明星が別々の星であった(明けの明星自身が宵の明星でなかった)という状況を想定することは定義からしておかしい。それは、1mが1mでなかったような状況を想定するのと同じで意味を持たない。意味を持たせようとするならば、明けの明星と呼ばれる星が(今我々が明けの明星と呼ばれる星を同定するのと似た性質を持って)有り、宵の明星と呼ばれる星が(今我々が宵の明星と呼ばれる星を同定するのと似た性質を持って)有り、かつその二つの星が別々であるような状況、と考えれば良い。名前は常に現実世界のものを指す。厳密性を期すなら、仮想世界について言及する場合は言葉を選ぶ必要がある。尚、ここでは同一性を示された当の対象がない場合の同一性の真偽については議論を外している。クリプキは、 (可能世界論で思考する場合の)その真偽の必然性について、そもそも対象が存在するとはどういう意味か、どのように記述すればそれを確実にできるかが曖昧であるかについて議論が錯綜するからだ、と言及している。 
 5:通常、種というものは経験によって分類されるが、そうでない場合もあるだろう。例えば、猫という動物の性質を分析し、書き出したところで、その性質以外の性質を持つ、猫に酷似した種が発見されたとする。この場合、その定義をこそ種の分類方法と断じる人々もいるだろうから、この種が猫の一種とされるか、それ以外の種とされるかは分からない(*a)。
 5-a:黒い鳥全てをカラスと呼ぶなら、白いカラスは存在しない。ある特定の性質を複数併せ持つ、共生し生殖が可能な鳥の総称をカラスと呼び、その性質のうち一つが「通常黒い羽毛を持つ」というものである場合、白いカラスは存在しても良い。
 6:定義が明らかである名前について、一部の詩的表現を除き、その定義を述べる言明は必然的と言える。「生者は死んでいない」「私は私の生みの母から生まれた」など…これらの言明が可能的である場合、名前の定義か定義の説明が正確でない。「生者は死んでいるかもしれない」、という言明は恐らく、生死の概念に比喩が含まれているのであろう。「私は私の生みの親から生まれていないかもしれない」という言明は、生みの親、あるいは、生まれる、という言葉の関係性が文全体で統一されていないのだろう。
7:つまり、猫が動物であることは必然的である。猫が動物でなく、悪魔であることは可能だが(*a)、その場合(現実世界に住む)我々はそれを猫の皮をかぶった悪魔と呼ぶだろう。注5で言及したとおり、こうならない例も存在するだろう。それは、どれだけその性質がその名前にとって本質的かの程度によるのだろう。そして、それは人によって変わるのだろう。(*b)このことについてはクリプキも言及している。(p150、l1「しかし、いったんこれが分子から出来ているものだということを---これが、その対象を形作っている物質のまさに本性だということを---知ってしまえば、この物が分子から出来ていなかったかもしれなかったということは、少なくとも私の見方が正しければ、想像できないのである。」)
 7-b:誰が、何を、どのように定義するかによって言明の中身そのものが変わってしまう。当たり前の話ではある。
 8:この言明を可能世界論をもとにより厳密に書き直すと、「我々の存在する世界では熱は分子運動であるが、熱が分子運動でない可能世界もある」ということだろう。その上で、可能世界とは単に約定される世界であることに注意。我々は、熱が分子運動でないことを想像できない。ただし、熱さという感覚が分子運動以外のものによって知覚される世界は存在するだろう。それを我々は「熱」と呼べるだろうか?(*a) 可能世界はあくまで「約定されるもの」だから、可能であるためには、我々がそう意識することが必要なのではないか。(*b)ここでは、熱さという感覚と熱という概念の取り違えがあるのではないだろうか…
 8-a:熱さのあるものが熱ではない。氷に触って熱いと感じる時、刃物を刺されて熱いと感じる時、そこに知覚したような熱は発生していない(熱は分子運動であると定められている、と我々は知っているから。)
 熱を同定する手段として分子運動の代わりに、別の熱を同定する定義に変えてしまっても、どこかで別の問題が発生するだろう。
 8-b:可能世界論はクリプキのモデルに依っている。言語感覚の違いにより、この説を否定することはできそうだ。人語を解するネズミはネズミではないのか、ネズミであるのか。註7で取り上げたか、どれだけ現実に対する考え方の束縛があるかで、可能世界の量は変わる。そして実際に、現実に対する言語感覚の縛りが弱い子供は、不思議の国のアリスのような突拍子もない世界を可能として信じることができる。
 9:だからといって、現実世界の既定の状況全てが必然的になるわけではない。例えば、我々が地球と現在我々が同定する惑星に存在していることは必然的ではない。これは、他の諸知識により我々が存在しない世界というのも用意に想定可能だからだ。