資本主義と悲観的観測

 ゼミの中でアダム・スミスの『国富論』をやっている先輩がいて、発表をちらと聞いて、本日電車の中で少し考えてました。
 資本主義が発達するためには、絶えざる拡大生産を必要とします。そのために帝国主義が蔓延したのは高校生以上の人なら周知の通り(知らなかったら社会科あるいは世界史科の教師がサボってます)。
 こいつがイッパイイッパイになってくるにつれて、資本主義の根本的な欠陥が見えてくるわけですが、資本主義によって発展した大国はこれを何とかするべく、「調整事項」として数十年(具体的にいうと20〜30年くらい)に一度戦争…それも小競り合いではなく大規模な…を必要としています。
 そして、資本主義国家は今でも戦争を推し進めています。まぁ、ここでは戦争に対する是非は問わないことにしましょう。それはまたの機会にということで。
 で、問題はここから。資本主義が絶えざる拡大生産を必要とし、ここに量の拡大に限界があることが示されました。quantityがダメならqualityへというのは自然な流れです。
 qualityの追求と自由競争によってもたらされる過度な効率化によって資本主義そのものが高度な能力を要求するようになります。高度な能力を扱うには高度な知能と発想性、それを消費する肉ダルマが必要となります。社会の成員数が限られ、自由競争によって限りなく練磨された社会は成功者のみを必要とし、弱者救済というゴミ行為を省略します。結果もたらされるのはとてもファンキーなひとつのテーゼです。
 「おまいら知恵出せ。なかったら汗かけ。なかったら戦争行って弾に当たって死ね」
 これらの要求水準がとてつもなく高められていった場合、知恵のあるヤツが政治支配権を握るようなこの社会では体制としてわりかし寡頭政治的な衆愚政治が発生、潅木さんや将軍さんのような人たちが大量出現してレッドスイッチがガコッと押されてしまったりするわけですね。あれ?