哲学とは一般に世界に対する考察を言う。考察には様々なものがあるが、その内哲学者と呼ばれるような人々の哲学に関しては、外延部しか語られていないのが現状だそうだ。一般に意味不明なテクストがあるとして、文献実証的な形で*1独自の解釈を行なうこと自体が意味を持ち、これが深淵なる世界を理解する手がかりとなることを期待して行なう諸行為が哲学への簡便なるアプローチであろう。勿論、独自の切り口で世界を切り取って見せるのも良いが、人間というのはとかく先行権を主張するため、誰か他の人が言っていることでは話にならない。かくして、今や偉人の文献を汲みつくし理解しようとするだけで人間の時間は足りなくなってしまうことになり、非常に検索性が悪いことになる。
世界を理解したいという求道精神はこれを満足させる可能性があるが、世界理解に関しては個々人的な動きがあり、また、哲学する人の諸側面を備えた特定人ごとの内的世界がまたあるわけであるから、結局のところ他者の意見に自らを同調すること、哲学者の精神の祠に入門することを得ずして哲学は語れないなどということになると、結局我々はいつまでたっても自分なりの見解などを見出すことができない。一体何をしているのかというと、未来永劫に語り継がれることの無い自己満足を延々と繰り返しているだけではないのか。
結局のとこめ、世界を切り開くには広凡にて深淵なる知識とスキルが必要になり、ここにおいて我々は世界を見つめる目として汎用性のある科学を習得し、内奥世界を語る術として文学を修め、世の中を裁く術として法学や経済学を学び、全てを理解することを必要とされる。我々はその時間を持ちえるのか。云々。

*1:文献内で証拠を明示する形で