示唆というものの幻想

鏡。十二。そして一つ。
手負いの山羊の頭蓋を抱えて、無邪気に走る子供たち。
満月が照らす闇夜の奇行
限界の淵からフェイドアウトする欲情の澱。
今宵はどうして祓おうか
今宵はどうして祓おうか

カテゴリーミステイクを幾つか並べてしまえば、深淵な意味があると誤解してしまうのが人の不思議。この辺は昔「珈琲奇譚」という詩でざっくり切ったことがあるんですけどね。なんだかねぇ。
テクスト自身をランダム生成するシュルレアリスム的手法でもなんでもいいんですよね。芸術ってのは、作り出す人の側にではなく、見る人の側にあるものだから。
芸術家は、普通の人よりほんの少し自在に、その領域に潜れる人なんですよ。だから、独自の感性で世の中を切り取ったって、それは偉大なる芸術家達が日常的に為すことで、普通の人でもたまにできてしまうことの一部に過ぎない。
後は趣味の問題。一流のカメラマンでなくても、たまにすごくいい写真を撮ってしまうことがあるのと同じように。写真を撮るのが好きなだけであって、技術もないただの素人であるのと同様に。僕は詩を書くのが好きだけれど、決して詩人ではないのです。
昨日書いたのは、ま、それだけのこと。