というより倫理学

人権擁護法案についての話。いつも閲覧している先の人が書いていたので、少し触れてみます。
人権を法律で守ろう、というのはいいことです。何故いいことなのかと言うと、人としてこれは当然の権利であると万人によって認められた最低ラインの一般常識を法案化することは、不文律を明文律に変更する所業であり、その一般常識を認めない人→異端分子を排斥することができるからよいことなのです。
妙なことだと思いましたか? 基本的には善悪の観念というのは、それを効率的だと考える人々が多い観念によって基盤が作られます。では、何故人類にとって共通項となる善悪が存在するかというと、基本的には人間は「生きる」ということを最も優先すべき行為として捉えているからです。その上で「いかに生きるか」という上位概念に、ここから派生する様々な条件が付加されたのが文化的善悪です。ですから、文化的善悪の一部は明文化によって改変され、本来的な善悪基盤を離れることがあります。
さて、話を戻しましょう。我々が我々のために作成する我々のための善の掟、というものが、法律であり、「我々」がどのラインまで定義されるかというのは場合によって異なります。通常は、法律を定めるのは国家であり、我々とは国家の認める多数派を指します。
で、この人権擁護法の問題はこれを外国籍の人に認めるということ。外国籍の人に認めるのが何故問題なのかというと、これは同じ文化を共有しているという最低条件をクリアしていない、と多くの人が思っているからです。
ところが、この同じ文化を共有している人、という概念は非常に曖昧なわけです。この辺りが一つの争点になるわけですね。
更に、人権擁護委員会というのは警察より大きな権力を持っているわけですが、この法案では、れが捜索権や逮捕権を持つわけで、しかもこれが強制力を持つので、ある程度頭のいい人なら、これを悪用して相手の評判を下げたり、金銭的に大きなダメージを与えることが出来るでしょう。また、こういった公権は「検挙する機関」と「つるし上げる機関」と「金もらってつるし上げを防ぐ機関」がワンセットになっているので、一旦タレコミがあれば皆嬉しそうに任務を果たそうとしてくれます。ちょっとしたでまかせとか、誇大解釈で、相手に強力な社会攻撃を仕掛けることができるようになるわけです。
攻撃手段ができるというより、怖いのは、この情報化社会では誰が自分の行動を誇大解釈して、社会的に行動不能にしてくるか分からないということです。こういうのが好きな人は沢山世の中にいますからね。なんだか意味不明なコンプレックスを持っている人々が。

というわけで、この法案さえ可決されれば、誰も人を中傷しないどころか、どんなに誇大解釈しても中傷とは言えないような行動や言動しか取らなくなる素晴らしい社会*1に向かって日本は前進しはじめると思います。

*1:普通はディストピア(暗黒郷)っていいます