歴史哲学

こんな感じで行こうかな、と。

 筆者は歴史に対する哲学というものに対し、若干の疑問を感じずにはいられない。歴史とは意図的に記録された流れであり、全体の極小である。歴史は過去から現在へ、現在から未来へと流れるものとしてイメージされるが、その選択された歴史の方向性について議論することは、その流れの方向性について「評価」することになる。評価は多角的な事象の側面を取り上げ、あるいは捨象して行うがため、どうしてもある側面に対してこれを切り捨てざるを得ない。すると、切り捨てた側面の評価がカウンターカルチャーとして蘇り反撃をはじめる。科学はいかにあったかを教えてはくれるが、いかにあるべきかを教えてはくれない。加えれば、哲学は行為であり、何かを知らしめる学問ではなく、何かに対する知を否定する学問である。つきつめるとメタ哲学論になり、不毛なのでやめておくが、哲学によって利益を得ようとすることは間違いではないか。
 だが、こうした一連の思考そのものが全く無駄だというわけではない。確かに、過去、全体性、統一性、単一性を求め世界の究極的な調和を目指した時代はあったし、そうした結論はある種の哲学的思考によってもたらされた。また、ロゴス中心主義があらゆる思考にはびこり…というより、功利主義原理がはびこることで世界に荒廃がもたらされた、という言説には真実味がある。これらを乗り越えて今我々はどこに向かうべきなのか、論議することそのものが間違いだとは言わない。しかし、これにどこか胡散臭いものを感じるのは何故か。
 今回は比較的手に入りやすい『近代-未完のプロジェクト』を参照して、その展開に即し、歴史哲学に感ずるところのこの胡散臭さを解明してみようと思う。本来的には文献としては『啓蒙の弁証法』の方が良いのであろうが、手に入らないのでまたの機会とさせていただく。

参考文献