イース・妄想。

色々とサイトを回っていて、イース1,2の攻略記事を見つけた。
自分のTRPG、及びその元凶となったライトノベル趣味には、やっぱり押さない頃に遊んだイースの体験が響いているんじゃないだろうか。
なぜその体験が影響を持つかということについては、上の「詩」で皮肉った内容にも関連しているんだけれども。

自分がヒーローになりたいという願望は、自分がヒーローじゃないというところから来る。イースの主人公アドルは、けなげで、努力家で、皆からは褒め称えられることはないけれど、恐ろしい冒険行の結果、人に愛されるようになる。それがリリムであれ、ドギであれ。
現実には、多くの人は、特にこうした楽天的世界観に憧れる人は、愛されるという体験に乏しいのだろう。そして、自分自身の問題をキャラクターに投影し、自分自身に共鳴させるのみならず、ヒロインや弱者にも己を投影し、理想化された自分で現実の自分の投影を助けるという代償行為にチャレンジしているのではないか、とふと考えてしまう。まぁ、余計なお世話だそれはオマエだけだろって人が大半だと思うけどね。
そういう意味で、メンヘラーは常に自己中だ。これを責めるのは可哀想だ。他人に居使える人は、決定的に自分が空っぽだったりはあまりしない気がする。もちろん、こういった手合いはマスゲームによって排斥されるのが「正しい」んだろうけど…