FEAR形式の諸作品を比較して見られる、昨今のゲーム事情に付随する古典的ゲーマーの戯言

 もしかすると、昔からそうであり、自分がそれに気づいていなかっただけかもしれない。
 とにかく、気づいたことをメモ書き的にまとめておこうと思う。
以下文章力チェック開始
 トーキョーN◎VAあたりからはじまった、FEAR形式と揶揄される独特のゲームスタイルは概ね好評だ。それはシーン制、組み合わせ式特技、参考作品、プレイヤー経験点制、ハンドアウトに代表される。

FEAR形式が目指していると私が受け取ったスタイル

 FEARはコアルール制を提唱している。つまり、FEARのスタッフ陣がTRPGを行う上で必要だと思われる知識や技術を惜しみなくルールブックに盛り込んでいる。これはこれで素晴らしいことである。しかしこれはすなわち、TRPGの遊び方をFEARの推奨するやり方に限定することでもある。もちろん、システムとは、あるいはルールとは、手段の提示と限定より開始されるものであるから、これは当然のことと言えよう。このような中でFEARはTRPGを「ストーリー生成の過程と結果を楽しむゲーム」と定義している。従来のTRPGシステムがそのルールの中でTRPGを定義できなかったところからくらべると、一歩進んだ感がある。
 ハンドアウトとシーン制はこれをより加速させる。ハンドアウトによって、各PCは動機を与えられ、その動機に突き動かされてストーリーを生成する。各PCのからみあうまさにその様を一つの大河的ストーリーとして俯瞰し、鑑賞して楽しむ。勿論その過程的行為としてのロールプレイやシステマティックな課題解決のゲームは、今までのTRPGが創りあげてきたものとして継承している。更に、その内ストーリー生成に不要と思われるものをシーン制によってばっさりとカットした。特に、相当品ルールはここに大きな影響を及ぼしている。プレイヤーやゲームマスターは、互いに生成したいと思うストーリーを生成するために不要なルールをこれによって除外し、純粋に望むストーリーを生成するために必要と考えられる演出を行うことができるようになった。
 また、独自の経験点システムは、古参のゲーマーにとって白眉と言えるものだった。プレイヤー経験点制をとることで、プレイヤーは一つのキャラクターに消費した時間の対価を集中させることなく、様々なキャラクターを生成することを可能にしたし、ゲームマスターは形式上、ゲームマスター役を演ずることで生じるストレスから軽減された。少なくとも、ゲームマスター役を行うことで経験点が多めにもらえるのであれば、多くのプレイヤーはゲームマスター役に魅力を感じるはずである、と。
 だが、事実はそうだったのか? 彼らの目指すスタイルが生み出したものは、狙い通りのものだったのか?

ストーリー生成の基盤となるものは何か?

 ストーリー生成にはある種の基盤が必要である。ロードス島リプレイが出た頃から、TRPGは既にストーリー生成のゲームとして知られていた。その頃のゲームが今のゲームに比べて情報量が多いかというと、決してそんなことはないだろう。では、その頃は何を基盤にしてストーリーは生成されていたか?
 一つには、キャラクターベースのストーリー生成がある。プレイヤーがキャラクターに取らせる行動、その一挙手一投足が世界観の雰囲気とストーリーの雰囲気を生成していく。オールドスタイルのTRPGでは、特にキャンペーンスタイルでは、第一回目のゲームプレイは「お試し」に過ぎない。キャラクターはデータの羅列や、プレイヤーが気まぐれに書いた設定やイラストによって象徴される薄っぺらな存在にすぎない。これが、数度にわたるセッションによって具体化され、あたかも生きた人間のような魅力をもって生じてくる。連続テレビドラマや大河小説が持つキャラクターの息遣いというものが、そこに生まれてくる。
 二つ目が、ゲームマスターベースのストーリー生成がある。これはシステムベースのストーリー生成と重ねることができるだろう。ゲームマスターがゲームをどのように演出するかによって、古来ゲームスタイルは大きく変わり、この点を左右できる人間が「うまい」ゲームマスターとしてもてはやされたものだ。夜のおどろおどろしい墓場とにぎやかな酒場の描写の違い、序破急に始まるテンポ良いセッション進行と真夏の昼間のような苦痛の続く迷宮的ストーリーの違い、この違いを語り分け、演出し分けるストーリーテリングこそが、ストーリー生成の鍵となった。
 三つ目に、世界観ベースのストーリー生成。所謂第二世代型TRPG(誰が名づけたんだろう?)は、圧倒的な背景世界設定を持ち、その背景世界設定から感じられる世界の息吹を体験し、そこで生み出されるストーリーを味わうのも楽しみの一つであった。ただ、このタイプのゲームはプレイヤーに独自の学習を強いる。システムベースの世界観設定はまたここに分類することもできるだろう。
 四つ目に、プレイヤーベースのストーリー生成がある。プレイヤーがそれぞれ独自に、生成したいと感じるストーリーをその場で生成する。これはGMベースのストーリー生成と似通っているようだが、根本的な違いがある。それは、プレイヤーはルールの根幹にある事象、その場の情景、NPCによる情景の操作などを基本的に許されていないという点である。そのため、プレイヤーはキャラクターに可能な限りの能力を用いて、情景を描写しようと試みる。

 プレイヤー経験点制やシーン制は、多かれ少なかれ昨今のゲーム事情を考慮して設定されていると考えていいだろう。ゲームにかける時間がないプレイヤーのため、膨大な情報量を1セッションに詰め込むために、これらのシステムが提唱された、という考えは、あながち間違いではあるまい。しかしこれらのシステムは、大胆に一部のストーリー生成の手法を切り捨てている。
 まず一つ目、キャラクターベースのストーリー生成をばっさりと切り捨てている。勿論、連続もののキャンペーンゲームを遊ぶ機会があれば、そういったことはないだろう。しかしながら、昨今のゲームは取り扱われるセッション内容が世界の危機等と大きく、同じキャラクターで何度もセッションを行うにそぐわない場合も多い。それに加えてプレイヤー経験点制であるから、キャラクターに飽きたらちょっと別のキャラクターに変えて、ということもやりやすい。勿論、キャラクターの雛形として、「あるタイプのキャラクター」のアーキタイプを用いることはよくある。ツンデレとか素直クールとか何とかかんとか。しかし、その雛形像は、果たして万人に対して理解されるものだろうか? あるタイプのキャラクター像に対する知識を要求されるのではないだろうか?(例えば、ツンデレ、ツンツン、素直クール、忍者妹*1、幼女王(幼女魔王?)タイプなどは一大勢力を誇るキャラクタータイプではあるが、ぶっちゃけ、適当な台詞回しなどを除いて、自分はそれらのキャラクター像をある種のアーキタイプとして用いることができるほど知らないし、有効活用できない。熱血系キャラクターですら有効活用できない…しかし、これは「勉強して習得すべき知識」だろうか?(そう断言して憚らない人もいるが、自分はそうは思わない。しかし、上記したゲームに掲載されている「参考文献」はこれらのキャラクタータイプを提示しているのではないだろうか?))
 二つ目のGMによる描写も必要でないわけではないが、大幅にそのチャンスが削減された。シーン制を導入したことにより、テンポのよいシーン切り替えが必要とされ、またプレイヤーベースのストーリー生成にクローズアップされているため、GMが四の五の言うよりもプレイヤーに喋らせて情景を作ったほうが面白くなったからだ。これはメリットデメリットの双方を生む。いわゆる吟遊詩人GMの登場を防ぐ効果がある。しかしながら、各々違った演出を期待する人物が複数人いるということは、個々の演出に避ける時間が想定的に減っていく。勢い演出は型にはまった記号的なものになる。そしてその記号的なもので独自性を出そうと思えば、記号的なものそのものに対する発掘意識が必要になる。かくして、伝達はこのようになる。
 「某アニメの第XXX回、キャラクターAが死んだ回の序盤ででてきたバー、あんな感じのバーに行ったと思ってくれ。バーテンもあんな感じ。」
 本来的には、このように描写されるはずであった事項だ。
 「足元につけられた控えめすぎる照明…もう、足元以外には、狭い廊下のガラス張りの壁に君の姿も写さないほどの照明の通路を抜けると、バー"ルーサン"はそこにあった。店内の広さは丁度今ゲームをしているこの部屋の5倍強。物静かな音楽が流れ、バーテンダーが無言でコップを磨きながら、店内に入ってくる君に目で会釈をした。」
 もし、該当する情報を知っていれば、前者の情報の方が密度が濃い。イメージも瞬時につかめる。対して後者の説明はまだるっこしい。時間もかかる。何より、このような描写をアドリブで創造するには、30秒ばかりのロード時間がGMに必要になる(そうでない人もいるかもしれないが)。シーン制のシステムではこのロード時間が致命的になる…シーンプレイヤーは描写を待っていてくれるかもしれない。しかし、シーンプレイヤー以外はどうだろうか? 登場するタイミングを図っているキャラクターではないプレイヤーは?
 このプレッシャーに負けたGM(つまり私)は雰囲気をGMの描写で伝えることを諦める。
 ちなみに、シナリオによって想定されたシーンであれば、このような情景描写の台詞を、簡潔で分かりやすい形で用意しておくことは可能だ。この意味で、FEAR系のゲームは従来のゲームで培った技術をマウントしていくことができる。しかし、ここにも少し疑問点がある。自分の持っているゲームのシナリオは(初心者向けなのか)、割合描写や台詞回しがかっちりと用意されている。何なら読み上げていくだけで台詞が用意できそうな感じだ。それに比べて上記したゲームのシナリオは、このあたりの描写はかなり貧弱になっている*2。善意に解釈すれば、シナリオ作成への気負いを取り外すための行為であり、気軽にシナリオが読めるように、また、本の価格を安く抑えるための行為でもあろう。しかし悪意に解釈すれば、FEARはそもそもGMに詳細な描写を求めていないのではないかと思われる。リプレイを見る限りでは、GMは詳細な描写をアドリブで行う能力に長けているように見受けられるが…(あるいは、それらの能力を全てのGMに求めているのだろうか?)
 三つ目の背景世界設定。昔の薄っぺらいゲームは世界設定もくそもなかったため、プレイヤーは自分達で世界の雰囲気を決定した。その後の第二世代型ゲームで知識の格差による世界観理解の齟齬が発生する。一応そのあたりを踏まえて、『ダブルクロス』などではステージ制という概念を取っている。言い換えれば、大まかな世界観をルールで提示し、詳細はセッション毎に変化するという方針である。この手法は大体成功しているようだ。サプリメントで追加の世界観も幾つも紹介している。だがそれでも、参考作品として掲げられたものをベースにストーリーが進んでいく傾向性は残っている。更にシステムベースの世界観決定とこの点は密接に関わってくる。特技を組み合わせて使用する際、皆はどのように描写しているだろうか? 自分はあまり想像力が旺盛でないため、既存の作品のコピー表現で描写するしか術を持たない。【影走り】や【猿の如く】を表現する際、自分の操るキャラクターは常に超高速で壁を走り、木の葉の間を跳ね回る(OVAジャイアントロボ?)。紅蓮の魔剣と【轟炎強化】と【轟炎衝】を組み合わせるならば、十分にひきつけられた拳に圧縮された超高熱が巨大な盾状の空気の断層を生み出し、叩きつけるようなテレフォン・ストレートの拳に収束された灼熱によって、直撃した相手は灰燼と化す(GGXのソルのタイランウェイヴ?)これらの描写パターンがなければ、これらの効果が実際にはどのように行われているのか想像することすら困難だ。この意味で、描写が規定されない多数の選択肢は描写の受け皿を必要とする。そしてその受け皿は多くの場合、ルールブックの側では、参考作品の他は断片的なイメージイラストやフレーバーテキストでしか明示されていない。
 シーンプレイヤー制は演出の多くを、演出方法に制限のあるプレイヤーに任せてしまっている。そのために上記のような記号的な…場合によっては受け皿としての知識がかなり必要になってくる…描出が頻出することになる。そのうち、リプレイなどでも笑いのネタとして扱われていることだが、プレイヤーがゲームの場を指揮し、もはや誰がゲームマスターか分からない状態になる。それはそれで構わない(実際にそのようなシステムで構成されたTRPG(クランプ学園TRPG:GMが存在しない)すら存在する)し、全てのプレイヤーが全体の場をメタプレイの視点から見渡し、調整ができる『マスター級プレイヤー』であれば、これは非常に楽しいセッションになるだろう。しかし、それをプレイヤーに期待するのは、そしてその統御を大元のマスターに期待するのは、少々荷の重い仕事あろう。プレイヤーはストーリー生成とその過程を楽しみにゲームに参加しているのだが、他のプレイヤーキャラクターのストーリー生成と、その過程と自分のキャラクターのストーリー生成のからみあう仕方に常に目を向けているというわけには、どうしてもいかないのだ(少なくともプレイヤーはGMが用意してきたすじがきに対して限定された情報しか持たない)。

 ここから考え合わせると、FEAR形式のゲームをプレイするのに必要な情報の総量は、実はD&Dなどの「データの山」として知られる古典的ゲームより実はかなり多いのではないかという疑問すら浮かび上がる。D&Dのルールブックをきっちり読んだ人は分かるだろうが、あのルールブックにはフレーバーテキストが実に多い。そして、行動に伴う成果が具体的に数値で示されている。相当部分、我々の現実世界に関する知識で補うことが可能だ。これはゲームスタイルの違いということもあって一概に言うことができない。ストーリー思考のゲームで距離何メートルとか言い出したらそれはそれですごく興ざめだからだ。しかし、概ね日常生活に根ざした情報で伝達が簡潔に行えるならば、その方が良いだろう。現代の日本のゲーマーにとって共通項となりやすい知識をピックアップしているため表面化することはあまりないが、そのゲーマーの流行から取り残された人々にとっては、その負担が重くのしかかることにもなりかねない。もっとも、いつの時代だって共通項の知識はあるのだから、世代間での交流、仲間内の交流にとどめれば問題は起こらないだろうけれど。
 とはいえ、こうした技術が使用しにくいということは、こうした技術に頼らない方向性を模索しているということなので、排斥するというよりは、よりユーザーの負担がかからない方向に常に考え、もっと進化させていってくれることを期待する。余談ではあるが、ダブルクロスのシナリオを見たうちの彼女が「なにこの気持ち悪い描写と台詞回し」と言っていたことだけ付け加えておく。商業施策としてターゲット絞っていっているのは、D&Dの一部の翻訳傾向も同じであるから、あんまり言わないけど。
 もちろん、FEAR式のゲームが想定しているのはこのようなものではなかったりするかもしれないが、そこはそれ。
 なんかとかかんとかぐたぐだ。まぁ、アホのたわ言ですので、突っ込みどころがあれば突っ込んでくださいなという感じ。色々勉強したいので。

 で、ストーリー生成のゲームであることから来る遊び方のタイプと、そこに生じるGM及びシステム批判者の怠慢、ということについてもうちょっと書いていこうかな、という感じ。その通りの内容になるかは分かりません。今書き上げてみて思ったけど、長い割に全然面白くないなこれ。
この程度の文章では釣れるもんも釣れないな…

*1:ごめん忍者妹は冗談。

*2:確認したのはブレカナのSSS及び基本ルールブックの付属シナリオ。勿論、単純な情景描写周りだけの話ではない。また、ブレカナやN◎VAのサプリメントを見る限り、世界観補足によって十分補われている情報でもある。