倫理的な問いにいぢわるを返してみる

とある掲示板より。

質問者 さんのトピックです。

・「ミミズ」を「殺していい(YES)」か「いけない(NO)」かを問う設問です。レスは設問に対し、YESかNOを明記することから始めましょう。また、YES,NOを補強する理論があれば追加してもらっちゃって結構です。(感情論は論外)

・一般的な問いでは「ミミズ」の部分が「人」が当てられています。あるいは、わたしのマイミクの方の例では「猫」でした。わたしが「人」でも「猫」でもなく「ミミズ」と置いたのは(画像を貼ったことも)意図的された装置です

wodd さんの書き込みです。

問いの状況が不明確。複数のパターンで回答します。

質問者は問う「私はミミズを殺して良いか悪いか」

→あんたの問題だからあんたで考えたら?

質問者は問う「私はあなたの責任においてミミズを殺して良いか悪いか」

→良い悪いを判断する判断基準が存在しないため、回答しかねる。私は私の責任においてあなたの行動を決定する権限を持たない。持つ場合は自らがその立場にあった時に取るであろう行動を薦めるが、その根拠は自ら以外の存在に明かした時点で根拠とならなくなる。

質問者は問う「あなたはミミズを殺して良いと思うか悪いと思うか」

→良い悪いの判断基準をこちらで定めて良いならば、自らの文化的経歴及び現在の状況を鑑みた上で「必要でない殺しはしないことにしている」という根拠の無い信念の元に「殺すのは悪いと思う」と答えるであろう。ただ、この回答は状況によって変化する可能性がある。

回答補足:

この質問に対する回答は「感情論」以外の回答はありえないのではないかと思うのですが・・・まぁ、全ての意見は最終的には感情論に行き着くしかないのだと思いますけれども。

「必要でない殺害行為はしないという信念」は信念ですから、それ自体論理的な回答ではありません。では、なぜそのような信念を持っているのか? その信念は抱くに値する信念なのか? と色々人格や興味の論理的整合性に対する批判があるでしょうから、さらりと回答。

「必要でない殺害行為を行う」とは論理的にはどのような行為なのでしょうか? 判然としません。必要でない行動は非論理的行動だと言い切るのはなかなか難しいです。真に論理的な行動というのは、真に論理的に正であるような可能世界でしかありえないでしょう。"論理的整合性"という語の適用範囲すら怪しい状況で、論理性を問うことはナンセンスです。






質問者 さんから woddさんへの返信です。

>「必要でない殺しはしないことにしている」という根拠の無い信念−

では、「必要である殺し」を提示してみて下さい



wodd さんの書き込みです。

>>小谷☻野ふ虎

>「必要でない殺しはしないことにしている」という根拠の無い信念−では、「必要である殺し」を提示してみて下さい

待ってました。必要である殺しとは・・・

「私自身がそうすることに対し一定の許容性を示す殺害行為を指す。時にその条件は変化するが、一般にそのような行為を行うことで自らの肉体的・精神的・霊的・社会的な損失に比べ、自らの肉体的・精神的・霊的・社会的な獲得が勝ると私によってもなされる場合をその条件とする。その比較基準は大きく主観によって委ねられる。」

「ではその比較基準は? 各損失はどのように定義される?」などなどの問題点を含む循環定義ですが、そのような言語ゲームを形成しているのが我々自身ですので、これについてはまた別の問題点になりますねー。

質問者 さんから woddさんへの返信です。

待ってましたと言う割には、主観的判断の域を出てないじゃないですかぁ。わたしが代わりに、客観的に言ってあげましょうか?? 必要である殺しなんて存在しないんです。殺しはおろか、あらゆる選択された行為に必要性なんてないんです。生命の根源は合理的なものではありません(必要から生じたんじゃありません)。と言うことでもって、woddさんとの話題には幕ですね



議論はこの後、個体の識別性から生まれる価値判断という方向へ・・・そこ、常識じゃないか、とも思うけれど、まぁそこが重要だと思う人もいるからナァ・・・