可能世界と記述

 可能世界はどこか遠くに存在すると考えられるものではなく、記述的条件によって与えられる。可能世界とは発見されるものではなく、約定されるものである。特定の個体Aに対して反事実的な仮定を行う時(つまりそのような可能世界を考える時)、”彼に対して”ある記述を約定したのだと言えない理由はない。あらゆる可能世界は質的なやり方で記述されなければならないと主張するならば、個体Aという名前を持ち出さずにその特徴を延々と述べることになるが、その特徴を全て備えたものが果たして現実世界のAに似ているか保障はない(*1)し、このような要求をする必要は無い。我々は現実世界の特定個体Aを取り出し、事態が別であったなら何が起こりえたか、問うことができる。
 可能世界の観点から反実仮想について問うなら「個体Aが現実と違う性質を持ち得るかは、個体同一性の基準は個体Aが現実世界で持つ性質を持たないことも含むのか、という問題と同値であるから、問題は変わらない」のか。上記のように可能世界を交差しての個体の同一性を問う時、通常の概念では個体Aが個体Aであるための質的な必要十分条件が満たされたものであり、それが個体Aを個体Aとして扱うための必然的性質である。これは、「個体Aが存在する可能世界を考慮するためにはそれと特定し得る十分条件がなければならない」という議論とは何の関係もない。反実仮想を行う時にこれは考慮され、それ以外のやり方で考えられる必要も無い(勿論、この性質というのは認識論的な性質ではない。人間Aの同一性を問う時彼が人間であることは普通約定されているが、現実にはAが精巧な機械人形であっても、人間だと誤解したままこの問いを行うことができる。実際にそれがどうかということと、我々がそれを知りえるかどうかは全く別の問題である)。

・1:デヴィッド・ルイスの「対応者理論」がこれとのこと。