名前と記述との関係

 名前は固有名を指すものを意味することとする。確定記述は固有名に含めないものとする。名前と確定記述の両方を含んだ共通の述語には指示詞という言葉を使うこととする。
話し手は特定の確定記述を用いて、論理学者の言う意味での確定記述の対象でない指示対象を指示することがあり得るが、このような認識の誤解に基づくものは含めない。
 名前は外示(denotation)は持つが内示(connotation)はない、と言われるが(*1)、実際我々はその内示する意味を受け取り得る。しかし、それは意義のある内容ではないため、名前がそのまま内示することがその名前の確定記述に反することがあっても、自己矛盾を犯したことにはならない。
同じ論法で、「Fxであるような唯一のx」が名前でなく記述であると考える必要はない。例を挙げれば、神聖でもローマ的でも帝国でもない神聖ローマ帝国という固有名があり、それは名前だと認められる(*2)。
 これに対し、正しく使用された名前は短縮または擬装された確定記述であるとする記述理論がある(*3)。上記の見解に対し、名前がどのように指示対象を決定するのかと突きつける。記述理論は短縮・擬装されている部分を元の形に戻せば良いという形でこれを示す。あるいは、直接指示こそが指示対象を確定するという直認(*4)という考えも存在する。
日常言語を用いる場合、我々は指示対象を定めるために唯一同定的な記述を与えるであろうから、これは尤もな説明である。また、同一性言明の有名な話を取れば、「ヘスペラスはフォスフォラスである」という文は、「ヘスペラス(と我々が呼んでいた星)は(実は)フォスフォラス(と我々が呼んでいた星と、それを違うものだと思って区別して名づけたが、実は同一)である」という意味を内包しているのであって、「ヘスペラスはヘスペラスだ」というトートロジカルな話をしているのではないことは明らかである。
 また、「アリストテレスは存在するか」という問いを発する時、唯一同定的な確定記述を名前が示していなければ、問いの意味がなくなる。
 そうでなくても、名前は曖昧な記述群の総体を捉えたものである、という記述の理論の群概念の立場を援用する場合が多く見られる。記述群の一部は偽であると実証され得るが、その大部分を満足する存在として名前が定められるという観念がある。
 どちらにしても、記述理論の側には意味の理論と指示の理論が存在する。前者は記述は名前の意味を表すとする立場、後者は記述群が名前を指示するとする立場となる。

・1ジョン・スチュアート・ミル『論理学体系』のダートマス(ダート河口町)議論によるとのこと。
・2 この例は本文『名指しと必然性』本文p29より。
・3 フレーゲの「意義」と「意味」の議論のことか。
・4 ラッセルの「直認」(acquaintance)